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日立セメントのトロッコ(9)~謎の引き込み線~ [日立セメント]

四十数年ぶりに市役所まわりの廃線跡をめぐっていますが、いろいろとわからないことだらけですし、何と言っても子供のころの記憶がかなり薄れてきていて、知ってるつもりだったことが実はもうわからないというのが多々あります。例えば市役所の西側の数沢川と鉱山電車の築堤に挟まれたグランドの名前。助川テニスコート?助川バレーコート?これまでコート日立さんのtwitterでもモン光城会館の話のところで、助川テニスコートとか助川テニスグランドとか書いちゃいましたが、バレーコートだったような気がしてきました。もう憶えていないのです。頭に「助川」がついていたのは間違いないのですが・・・今後はバレーコートで統一します。

かつての記憶だと、上諏訪台の雄峰寮の南側で鉱山電車を跨いでいた橋のたもとから南側へと降りる小道は鉱山電車の廃線跡の築堤へとつながってゆき、築堤上を更に進むとすぐに助川バレーコートの入り口にたどり着きます。入り口は鉱山電車の軌道敷側に面していました。当時、何も知らない僕たちは、「バレーコートに行く人はみんなここで電車から飛び降りたのかな?」などと想像してましたが、そんなわけないですよね。

コートの南側で、鉱山電車は日立セメントのベルコンと立体交差になっていて(下の写真の青丸で囲んだ箇所)、その上に短い鉄橋がかかっていました。謎だったのは、その鉄橋のもう少し西側のベルコンの管理小屋のすぐ脇にも、数沢川をまたいで軌匡のような2本の線路が引っ掛かっていたことなのです。セメント軌道の存在をまだ知らなかった当時、なぜこんなところに線路があるのか皆目見当がつきませんでした。
下の空中写真で赤丸で囲んだ箇所なんですが、この写真は鉱山電車廃止の翌年の撮影のため、バレーコートはまだできておらず鉱山電車の線路がこの場所で分岐して、同じようにセメント軌道を跨いで電線工場の方向に伸びる引込線があったように見えます。写真を拡大すると鉄橋の西に2本の軌条らしき影が見えるので、おそらく道路ではなかったものと思われます。
芋子内東.jpg
(国土地理院1961年)

この時代は住宅地図も無いので、真相はどうだったのか資料らしいものがなかなかないのですが、下の戦前の地図を見ると確かに鉱山電車から分岐する線路が確認できます。ただ、この地図と1961年の空中写真を比較するとセメント軌道と引込線の位置関係が違ってます。
芋子内.jpg

なによりも、この引込線らしいものが何のために使われたかもわかりません。電線工場への引込線といえばもっと南の大聖寺袋線が使われていた筈ですから。60年以上前のこれらの謎を解くのは難しそうです。
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池の川のカッパ

電線工場で働いていた現90歳の方のお話では、「謎の引込線の所は低地で鉱山から排石を運び埋立てをしていた」とのことでした。
by 池の川のカッパ (2023-10-01 16:09) 

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