SSブログ
なつかし街巡り ブログトップ

日立挽歌(4)~ 助川編3 [なつかし街巡り]

銀座通りを西へ
本日は定休日のお店が多い中、盛業中の小川屋酒店さん
22小川屋酒店.jpg
この店の規模にしては品揃えも豊富で日本酒党にはうれしいかも

市民会館通りにあった大黒屋青果店とパーラーサラード
大黒屋.jpg
青果店の階上にパーラー(パチンコ屋にあらず)を併設するのは昔流行ったらしく、水戸も20年くらい前までは南町から泉町にかけて多くの果物屋さんや青果店にフルーツパーラーがあって新鮮なジュースやスイーツを楽しむことができました。
今では資生堂や千疋屋などでしかお目にかかりませんが、昔は地方の中心都市にはこういう文化が浸透していたんですね。豊かな昭和の日立の面影が偲べます。

大黒屋の近くには1970年頃まで日立書房という貸本屋さんがあったのも思い出しました。
テレビや漫画雑誌の普及で貸本文化は潰えましたが日立にもブームは到来していたようです。

日立の音楽関係の専門店と言えば映光社。
23映光社.jpg
今世紀に入ってからも営業していたと思いますが、シャッターの落書きから見てもうやってないみたいですね。明るい店内にたくさんのレコードと楽器、楽譜が並ぶきれいなお店でした。日立に住んでいた頃、ここでピアノを習っていました。妹を連れてヤマハの音楽教室に毎週通っていたのがなつかしい。
ピアノ教室は映光社の奥にある木造の建屋にあったので、南側の裏口から入ることもできました。
24音楽教室.jpg
裏手に回ると、どうやら音楽教室は今も営業中のようです。

そして相賀館。この地区で最後まで残る映画館になるとは思ってもみませんでした。
25相賀館.jpg
建物は競売にかけられたようですが、今後の動向が気になります。

本局前のバス停は日立郵便局が移転したので「保健センター前」に改称しています。
前述の常磐急行バスが日立駅を出て最初の停留所がこの「本局前」でした。他にも電鉄プラザと福島県いわき市の平駅(現・いわき駅)を結ぶ電鉄・常磐交通共同運行の急行バスもここには停車していて、日立のバス交通の要衝でした。
26本局バス停.jpg
銀行前もそうですが、バス停脇の店舗というのはバス待ちの買い物客が最後に立ち寄ってくれる最高の立地の物件だったのですが、今となってはそんなことは関係なく空き店舗化が止まらないようです。
27本局前.jpg
こんな目立つ場所までスプレーでペイントされて、なんか荒廃した世紀末を舞台にしたあの拳法漫画のワンシーンのようです。

対照的に整備が行き届いている電線工場の杉の内クラブ。
28杉の内クラブ.jpg
街中の企業福利厚生施設も平成年間で次々姿を消しましたがここは健在でホッとします。

ちょっと足を延ばして電線工場の北側でセメント採石鉄道跡の様子を見てきました。
30軌道跡.jpg
昨年のベルトコンベア撤去以後特に変化は見られません。
反対側を見ると平日なのに人の気配がない電線工場の北西側。
32電線工場2.jpg
向こう側には改修中のNTTの電波塔が見えます。
散策はこれで終了です。

最後に日立市役所に立ち寄り。いま日立市で最も立派な建築物。
29市役所.jpg
1980年頃まではこの撮影位置あたりに鉱山電車の築堤があって、目の前の丘にあるトンネルに向かって線路跡が続いていました。小学生の頃、この場所を級友たちと何度となく往復して遊んでいたのが懐かしいです。

5月6日の午後に駆け足で日立の街中を見てきましたが、この50年ほどの間に日立の街も大きく変わったのを改めて実感しました。
過去に遡ると、日立の街の中心は宮田の新町→栄町→助川→駅前再開発エリアと遷り変わってきており、これからも時代に応じた変化を遂げていくのでしょう。他の地方都市と同様、中心市街地は空洞化がとまりませんが、日立市が人口減少下でも市民が豊かさを実感しながら快適に暮らせる都市の模範を示していけたら素晴らしいですね。人類史上例を見ない少子高齢化社会が進展する日本の中にあっても異例のスピードで人口減少が進む日立市。その対策においても先進的な取り組み事例を世界に発信していってほしいものです。
nice!(0)  コメント(2) 

日立挽歌(3)~ 助川編2 [なつかし街巡り]

この前に銀座通り裏の線路跡を辿ったのは平成11年の「鉱山電車跡を偲ぶ」みたいな市の催事に参加して以来なので22年ぶりです。
当時はまだところどころに鉄道があった頃の構築物の名残があったのですが、その後駐車場の改修や度重なる路面の舗装もあってもう何も残っていないに等しいですね。細長い駐車場の両側に張り付くように細い街路が続く鉄道の廃線跡の典型。
13線路跡3.jpg
12線路跡2.jpg
14線路跡4.jpg
唯一の鉱山電車の名残は、銅の製造過程で生成される硫酸の輸送管を格納していたらしい側溝が撤去されずに残っているくらいでしょうか。この側溝が鉱山電車の線路沿いに敷設されていたようです。この先、助川荷扱所方向はけやき通りまで飲食店街の敷地となり、その先は再開発されて廃線跡は姿を消します。

弁天町バス停から見た再開発エリア。
15弁天町バス停.jpg
鉱山電車はこのバス停のところでけやき通りを横断し、その先は終点の助川荷扱所まで日本鉱業関連施設が広がる広大な貨物ヤード内を進んでいきました。
16線路跡5.jpg

再開発前は日鉱の敷地全体がコンクリートの高い塀で覆われ、中を覗き見ることはできませんでした。
子ども心に「この塀の向こうにはまだ鉱山電車の残骸や引込線の線路の一部が残ってたりするんだろうなあ」などと夢想していました。変な子どもでしたね。
17堀米.jpg
この駅前の店舗兼マンションの屋上にでも行けば塀の向こうも見渡せたでしょうに、そういう知恵の回らない子供でした。

駅前通りも昔からのお店はほとんど残ってないですね。飲食店は居酒屋さんになったところが多い印象。業態転換し大きく姿を変えてしまったセメント工場が見えます。
18セメント工場.jpg

そして日立駅へ。市の玄関口の駅なのに押しボタンを押さないと歩行者信号が切り替わらない交差点ってのもこの規模の都市では余りないかもしれません。
19歩行者信号.jpg

駅前広場に残る大きな銀杏の木。
20駅銀杏.jpg
移植されていなければ、かつてここは常磐急行バスという日立駅と東京の新橋を結ぶ長距離路線バスの乗り場があったところです。昭和52年まで運行されていました。1970年代ともなると高速道開通前の国道6号線の渋滞は尋常でなく、このバスも大幅な遅延が常態化したため乗客が皆無に近くなり廃止となったそうです。

そして日立駅内のぷらっとひたちに到着、本日の日立に来た一番の目的はここです。
大煙突の紙芝居を見るのを大変楽しみにしていました。
紙芝居はyoutubeでも見られるようになりましたが、やはり実物を間近にして見るのが良いですね。
21紙芝居.jpg
気になる鉱山電車の客車の色は何とも言えない冴えない色のツートンカラー、私のイメージ通りの色です。もうこれでいいんじゃないでしょうか?紙芝居を見た市民は全員、鉱山電車の色はこの色、とインプリントされたと思いますので・・・機関車の方は国鉄旧型電気機関車と同じぶどう色2号ってことにしときます。
帰りはシビックセンターの方から銀座通りを戻ることにします。
(続く)
nice!(0)  コメント(0) 

日立挽歌(2)~ 助川編1 [なつかし街巡り]

昼食を終えて再び銀座通りに移動。
かつてプチ亀宗やいばらき蕎麦屋があった跡の駐車場に車を止めて散策へ。
0駐車場.jpg
ところでこの近辺の駐車場ってどこも1時間いくらじゃなくて朝から夜まで250円みたいな設定なんですね。
もう買い物客はターゲットにしていないのでしょうか。

十字屋西館跡の駐車場越しに見る伊勢甚日立店二代目店舗だった駐車場。
1伊勢甚.jpg
本局の近くにあった旧・丸和百貨店の日立伊勢甚がこちらに店舗を新設したのは昭和46年でした。日立の伊勢甚百貨店は新店舗オープン後も旧・丸和の方の店舗も伊勢甚クレジットとして一応デパートとしての営業を続けてましたね。その後は家具店の店舗になって、今はマンションの敷地となっていますが。

そんなわけで日立の街には一時、伊勢甚が2店舗のほか、十字屋、京成志満津と小さいながらも4つのデパートがあったことになり、当時茨城県内で水戸を凌ぐ最大の人口を誇った日立の商業都市としての象徴でもあったように思います。銀座通りのプチ亀宗はいくらなんでもデパートとは言えないけれど、多賀駅前にも伊勢甚・亀宗があったのでそれも入れたら市内合計で6つですね。
その他にも日立福利サービスのフラッグシップだった兎平供給も事実上のデパートだったと思います。

でも市内の最大のデパートだった伊勢甚にしても、丸和が伊勢甚になったのは昭和40年代に入ってからですし、新・伊勢甚も店舗として稼働したのは20年に満たず、3代目店舗も2004年には撤退しているので日立では老舗百貨店というほどでもないんですよね。

訪ねた日がわるかったのか、ただでさえ空き店舗が多い銀座通り商店街で統一定休日とあいまってシャッター商店街の印象がより強まってます。
2銀座北.jpg
3小泉スポーツ.jpg
落書きが無いシャッターのお店はまだ営業中なんでしょうかね。
プリンスメガネは水戸の本店のプラネタリウムが有名でした。
小泉スポーツは最新のスポーツ用品が揃うお店として昭和40年代も人気のお店でしたね。
それと電線工場の近くに小泉スポーツセンターという別館があって、いろんな種類のトレーニングマシーンがあって子供たちに人気でした。特にトランポリンは児童の長い順番待ちの行列ができていたものです。

そして日立の昭和の子供にとって忘れてならないのがおもちゃの光月堂、本局寄りにあったナカニワ玩具店とともに日立の子供に多くの夢を与えてくれました。
4光月堂.jpg
(写真ピンボケで済みません。)

6号国道から電線工場の方を見やると、鉱山電車の線路跡に建った日鉱不動産のビル。
5日鉱不動産.jpg
この場所に昭和の終わり頃まで鉱山電車の踏切小屋が残ってたそうですが、柴田さんの「むかし話」を見るまで私はついぞ気が付きませんでした。

銀行前バス停の今。
8銀行前.jpg
左側の空き店舗はお肉屋さんでしたね。マチまで来た帰りには必ず夕飯のオカズを買ったものでした。25円のウインナーのフライが好物でした。

母や叔母たちや女性と一緒に銀座に来るとよく立ち寄ったのが甘味処ときわ。
9ときわ.jpg
映画館跡の駐車場の向こう側のお家のところの角にお店がありました。クリームあんみつとホットケーキがおいしかった。

鉱山電車の線路跡沿いに東へ進んでいくと市民会館通りを横切り弁天町へ。
11ナカウラ模型.jpg
ナカウラ模型店はtwitterでも書きましたがずっと気になっていたお店です。小学校時代は市民会館前の鉄道模型を扱うトヤマ模型店ばかり行っていて、結局このお店には行かずじまいだったのが心残りです。
(続く)


nice!(0)  コメント(0) 

日立挽歌(1)~ 宮田編 [なつかし街巡り]

久々の休暇、東京へ帰る前に私が生まれ育った日立の街を見て回ってきました。
お昼は銀座通りの百番で久しぶりに、と思いましたが既に閉店しています。
百番.jpg
昔は宮田本町の6国と仲町小に向かう通りの丁字路の角にあったんですが、昭和52年に銀座通り裏に移転した大衆食堂でした。
のっけから殺風景な写真ですが、以後ずっとこんなのばっかりです。

気を取り直して、宮田へと向かう。
こちらはまだやってる東仲町の日立食堂。日立に住んでた頃は本町の「かどや」とともによく行ってたお店です。
日立食堂.jpg
力うどん.jpg
私はここの力うどんが大好物でこの店ではほとんどこればっかり食べてます。
甘しょっぱいツユと軽く炙った餅と程よいコシのあるうどんのとり合わせが絶品だと思ってます。600円。

日立食堂の向かい側の60系統東河内行の公園口バス停。前は大雄院方向のバスだけ一本北側の通りを走ってました。
大雄院幼稚園にはこのバスで通ってました。私が子供の頃は日中でも東河内行と本山行が交互に30分おきに走ってたんですが、いまはこんだけになっちゃったんですね。
60公園口.jpg
このバス停、書いてある系統の古さから見て40年以上前からずっと使われているように見えます。
40年以上前といえば、バス停の後ろにある町内の商工案内図もかなりの年代物。
中央の「高島商店」では店頭でオタマジャクシがワンカップのコップ一杯20円で売られてた思い出。仮面ライダースナックをカードだけ取って菓子の方を店の前に捨てて店の人に怒られた子供がいたり昭和40年代後半あるある。
商工地図.jpg

何故か日立風流物の石碑が。
風流物.jpg
かつてはここで5月3・4・5日に風流物が開催されていて、5月4日は祭りのために小学校が2時間授業で打ち切りでした。私も何度か山車を引きましたが、鐘や太鼓の鳴り物は地元の有力者の子供が独占してうらやましく思ったものでした。風流物はもうかなり前から桐木田のお祭り広場や平和通りで開催していると思いますので、ここにこの碑があってもピンとこないかもしれませんね。

下は昨日、コート日立写真館さんとやりとりした日産観光の車庫の跡とその周辺。
日産観光.jpg
猿田洋服店はもうなくなってました。
猿田洋服店.jpg
日産観光の事務所はこうして見返すと左側のJCIのビルではなく、右側の空き地になってる元の猿田洋服店の駐車場だった場所だったような気がします。
JCI.jpg
間に見える階段ですが、宮田って車道が途中で突然行き止まりになってその先が階段になってる所って多いんですよね。宮田川の河岸段丘を覆うように街並みが形成されたせいだと思います。でもこうして次々と空き地が増えてくるにつれ段丘の全容がわかるようになる日も近いことでしょう。
続きはまた後日。
nice!(0)  コメント(0) 
なつかし街巡り ブログトップ