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日立にあった謎の鉱山鉄道について

11月26日に日立の産業遺跡を巡るバスハイクが開催され参加してきました。イベントは日立市の共楽館を起点に日立鉱山にゆかりのある施設や施設跡をめぐるというものでした。
当日、講師として1981年の閉山まで日立鉱山でお仕事をされていた大町さんから鉱山についていろいろなお話をお聞かせいただきました。
 その中で、長年謎に包まれていた大雄院地区の坑口について伺うことができたので今回はこのことについて書いていきます。

出発してすぐ、今年9月の台風で崩落したJX金属のカラミ山の被害の大きさに驚く。
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麓の方をよく見ると、2台の白い自動車の間の奥の方に坑口のようなものが見えます。
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これは、旧大雄院社宅から本山方向にある楓橋(もみじばし)のたもとにあった宮田坑という坑口の跡で現在は入口は鉄格子で立ち入れないようになっています。
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現在も坑口手前の宮田川に上路式の鉄橋が架かっています。
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宮田川を挟んで鉄橋の手前はかつて楓橋社宅(旧称・供給下社宅)の敷地でしたが、この場所の社宅は昭和30年代に撤去されており、その後は坑口から延びる線路の敷地となって1970年代の前半までトロッコが何台か停められていました。楓橋より西側の旧バス通りを含む産業道路と宮田川にはさまれたこのエリアは現在JX金属の駐車場となってフェンスで囲まれており部外者は立ち入れないようになっています。
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このトロッコについては、廃線系鉄道考古学vol.4でも西裕之氏が表題の謎の鉱山鉄道として紹介されています。本書でも坑口が何に使われたかは謎とされていますが、今回鉱山OBの大町さんに坑口のことを聞いてみました。

大町さんのお話によると宮田抗は当地一帯で鉱業権を有する日本鉱業が銅鉱石鉱脈の探鉱のために設けた坑口だったそうです。本山から延びる坑道は地下数百メートルの深さまで広範囲に及んでいましたから、探鉱のためには楓橋付近から掘り進めた方が効率的な鉱区もあったことは想像に難くないですね。
実際、宮田坑の坑道は本山からの坑道とも地下で繋がっていたそうです。しかし宮田坑から鉱石を運び出すことは行っておらず、終始探鉱と坑口から出る地下水の処理にだけ用いたとのことでした。
そういうことであれば宮田坑の外には西さんが本で紹介していたように小規模なトロッコヤードしかなかったのも合点が行きます。

私の記憶は1971年頃からですが、年に1,2度トロッコヤードの傍を通るたび施設の撤去が進んでいくのを見ることができました。それからしばらくして1985年頃に訪れた際には既に何もなくなっていました。

最後に軌間(線路の幅)についてですが、日立鉱山が坑内軌道用に導入した機関車は610ミリ軌間もしくは508ミリ軌間だったので、日立駅から延びていた鉱山電車や大雄院の精錬所構内線の線路は762ミリ軌間を採用していたこともあり、宮田坑の線路とはつながっていなかったと考えられます。
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